自己紹介


加藤源重 : 生年月日: 1935年9月25日、出身地: 愛知県岡崎市

鍛冶屋の息子として育ちながら、中学卒業後には別の工場へ就職。

旋盤工見習いとして住み込みで働き、日々仕事に明け暮れる。

 

56歳の時に、仕事中の事故で利き手の指をすべて失い、使いやすい機能的な自助具を慣れない左手で作り始める。

 

シンプルで壊れにくく、工夫が凝らしてある自助具が話題となり、「三河のエジソン」として有名になる。遠方から自助具を作ってもらうために訪れる人もいるほどの人気。



■今、私は「三河のエジソン」なんて呼ばれています。

私は、愛知県の岡崎市牧平町コタラゲという山間部に妻と2人で住んでいます。いつからか「三河のエジソン」と呼ばれるようになりました。

 

1991年の3月に、当時機械工として働いていたときです。機械の修理中の事故で、私の利き腕の右手の5指を失い、障がいを持つ身となりました。

 

50年以上も使い慣れてきた右手の指が、ある日突然なくなったのですから、それは、人生がひっくり返る程に大きな打撃でした。

 

そして、心の葛藤を繰り返しながら、このまま人生に負けたくない!負けてたまるか…!と歯をくいしばりながら、また、障がいを負ったからといって人生が終わったわけではない…と自分に言い聞かせ、勇気と希望を持って前向きに生きていこう…!、明日に向かって頑張って生きていこうと決意したのです。しかし、その決意を実行していくことは、決して容易ではありませんでした。

 

私は、このときから自分の右手を補う自助具作りを始めました。そして、いつの間にかその自助具が話題となり広がって、私と同じ悩みや障がいを持つ多くの方々に喜んでもらえるようになりました。

 

私の作る自助具は、障がいを持つ方の残っている機能を最大限に生かし、そして、それぞれに異なる障がいに合わせて作っています。

 

自分自身の自助具つくりから始まった活動から、いつのまにか、「三河のエジソン」と呼ばるようになりました。

 



■「もう一度、箸で食事がしたい!」っと思って…

1991年の3月に右手の5指を失ったときには、ショックで目の前が真っ暗になりました。そして、途切れもなく襲ってくる痛みで三日三晩眠れませんでした。

 

やっとのこと完治したのですが、さらに私を苦しめたのは、右手が支えにしかならないことです。そして、何をするにしても慣れない左手を頼りにするしかないことでした

 

文字を書くのも、箸を持つのも、ネクタイを結ぶのも、靴下を履くのも、ボタンをはめたりズボンのベルトを通すこともみんな左手を頼りにしなければならなのです。

 

特に、食事をするときの不自由さは、私にとって、想像以上に大変なことでした。「もう一度、自分の右手で箸を持ち、私の好物である刺身や豆腐を食べたい」という思いは、日を増すごとに強くなりました。

 

そして、その思いが増すにつれて、不自由な右手の現実と、私の決意の戦いが激しくなったのです。まさしくこの戦いは、自分自身との戦いでした。

 

私が、この自分との戦いで勝てたのは、右手のこの不自由を何とかしようという強い思いがエネルギーとなり、私の夢と希望になったからです。

 

そして、この夢と希望が私の心の支えとなり、私に強い力を与えてくれたからだと思っています。私は、無くなったものを求めることよりも、自分に残っている機能を活かそうと、使い慣れない左手に鉛筆を持って、必死で右手の自助具の構想を練り図面に書きました。

 

それで私は、右手に残っているわずかな親指の付け根の動きを利用した構造をもつ自助具を必死に考えました。

 

やっとのことで書き上げた図面と、これで何とかなると大きく膨らんだ夢をもって、当時、私が頼るしかない義手メーカーに製造をお願いに行ったのですが、義手メーカーの方は一様に、「指のない手で箸を持つなんて無理に決まっている。」と言われ、ほとんど話を聞いてもらえませんでした。

 

義手メーカーのみなさんは、頭が良すぎて、多くの知識がありすぎて、駄目だと思い込んでいるんです。図面を見せ説明しても、「そんな絵のようにはいかない」と言われてしまうんです。 

 

今度こそと思いながら、巡り巡った4軒目の訪問先も、あえなく無駄に終わってしまいました。そして、帰り道に、ここまで来たらもう自分でやるしかないと思ったんです。 

このときに私は、自分の人生は、自分で歩まなければならない…、困ったからと言って他人に代わってもらうことなんてできない、人は同情はしてくれるけども、いくら同情をもらっても私自身の不自由さは解消されない…という当たり前のことに気が付いたのです。 

 

私は、この日から不自由な自分の手で、自分の自助具作りを始めました。

 



■順番に、焦らずに、今日1日を頑張るんだ!

私が最初に取り掛かったのは、いろいろな道具を持てるフォルダーでした。これは後に「万能フォルダー」と名付けました。でも、利き手の指を失っての作業は、なかなか思うようには進みませんでした。

 

 無意識のうちに、健常時のころの記憶が浮かび出て、簡単な作業もできない苛立ちや、焦りがつのって、毎日の作業が苦痛でたまりませんでした。それは、言葉では言えない苦労の連続でした。

 

 身体はあざだらけになり、手足は血だらけになりながら、それこそ血を吐く思いです。この苦労は、人の想像をはるかに超えるものでした。
でも、今自分がしていることは、自分に自由を与えてくれる自助具つくりなのです。私は、こんなジレンマの狭間の中で苦しんでいたのです。

 

 そんなある日、「どうして嫌な気持ちがでてくるのか…?」、「なぜ辛いと思っているのか…?」と考えていると、健常だったときを基準にして作業をしていたことに気づきました。

 

 結局私は、無いものねだりをしていたのです。もっと早くしたい、もっと何とかしたい…と、障がいを負った現実を認めないで焦っていた自分に気づいたんです。

 

 そこで私は、過去を振り返っても何も変わらないのなら、これから向かう目標を「自分で箸を使って食事をすること…!」にしました。そして、焦らず一歩一歩、今できることだけでいいから、生命(いのち)がある限り、「今日1日だけを頑張ればいんだ!」と思うことにしたのです。そして、翌朝、まだ生命(いのち)があれば、また今日も一日頑張るのです。

 

 先のことなど誰にも分からないことだし、今できることだけを今懸命にすればいいことなんだ…と、そして、焦ってもだめなんだ…ということに気付いたのです。

 

 それで、毎朝床から起きるときに「今日も1日がんばろう」と3回声を出して唱えることにしました。しかし、時間がたつにつれて、やはり苦痛や辛さが出てきました。 まだまだ自分は、思いが足りないと、今度は、紙に書いて目が覚めると必ず目に見える場所に、その書いた紙を貼っておくことにしました。そして、今までよりも声を大きくして読み上げることにしたんです。

 

 そうしている内に、少しずつ万能フォルダーの形ができてきて、ふと気が付くと工房に向かう自分の足が、無意識にリズミカルに動いているのに気づいたのです。また、そのときには、毎朝唱えていた「今日も1日がんばろう」も忘れていました。

 

 そんな日々を重ねて半年後に、トンカチやドライバーを使える万能フォルダーが完成しました。そのときは、これでいろんなものが作れると思い、次々に新しいアイデアが浮かんできました。時間を問わず浮かんだアイデアは必ずメモにとりました。

 

 そして、メモしたそのアイデアを形にしていくわけですが、この時間は実に楽しく、気持ちがうきうきして、私の心は、弾んでいました。そんなときは、朝日が昇るのが待ち遠しいし、時には、食事をとるのも忘れてしまうこともありました。

 

 自分の自助具を完成した後に、徐々に私の話が広まり、私の開発した自助具を求める方々が増えてきてました。

 

 作業が増えてくるに従って、私一人で出来る限界もあって、ボランティアで自助具を製作する「福祉工房あいち」を2000年1月に設立しました。 現在、「福祉工房あいち」は、試行錯誤を繰り返しながら22名のメンバーで活動を展開しています。



■ローテクこそ、ハイテク」が私の信念です。

私のつくる自助具は、誰が見てもすぐに分かる簡単な構造ばかりです。電気を使わない、いわゆるローテクです。部品の数を可能な限り少なくし、シンプルな構造を基本にしています。

 

 シンプルな構造の動きは、当たり前ですが、単純な動きで、故障も少なく長持ちします。しかも、説明も簡単で誰でも使うことができます。

 

 私は、究極までシンプルさを追求していくからこそハイテクなんだと考えています。また、そのシンプルさを追い求めていく追求思考は、止まることなく創作品を常に進化させています。


片手で洗濯物が干せる洗濯バサミなどは、小さな改良を加えると9回も脱皮しています。思いついたら一刻でも早く形にします。

 そして、不具合があれば、その時々に改良を加えていきます。いきなり富士山の頂上に登れないように、先ず最初の一歩を踏み出します。そして、一歩一歩登って行くことが大切だと思っています。

 

 私は、この一歩一歩と進んでいくときが一番楽しいときなんです。私が作った自助具で、40年ぶりに箸を使えた方や、お風呂以外は必ず身につけていると言ってくれる方など喜びの声を聞くと、ひとしおに私の喜びは倍増します。

 

 気が付くと、私がみなさんに喜びの素をもらっているんです。



■怪我した右手が私の宝です。

私は、障がいを持つまでは自分のことしか考えていませんでした。また、障がい者の方と出会っても人事のようにしか思っていませんでした。

 

 私は、右手の5指を失って初めて、人生は他人に代わってもらうことができない…ということや、やる気をなくして何もしないでいても、時間はだまって過ぎることに気付きました。

 

 そして、障がいを持つ人たちの痛みや苦しみが理解できるようになりました。また、人の笑顔や喜びが自分を幸せにしてくれることを知ったのです。私は、手に障がいを持ってはじめて人に優しくなれたのです。そして、生かされていることに気づき、生かされていることに感謝の気持ちをもてるようになりました。

 

 健常のときは、生きていることが当たり前で、何の計画も無く、無意味な時間を費やし今日は昨日の繰り返し…、と何の変化も無く、何の気迫も無く、能力があっても殆ど使うことなく、漫然と生きていたのです。私は、私の人生の大半を無駄に過ごしてきたことに気が付いたのです。

 

 しかし、後悔しても、もう過ぎ去った時間は戻ってきません。今自分にできることは、二度とない「今」という時間を懸命に生きることなんです。そして、今、私は、どうせなら明るく生きよう!前向きに楽しく生きよう!人に優しく思いやりをもって生きようと毎日を過ごしています。

 

 言わば、このように私の右手の怪我が、私の人生を変え、私をまともな人間にしてくれたのです。本当に、貴重なことを教えてくれたんです。今は、仮に手を移植できるとしても、私は要らないと思っています。

 

 私は、右手の5指を失って、その不自由さも辛さも嫌と言うほどに味わってきましたが、その苦しさを味わう度に、たくましくなってこれたのです。

 

 次々と浮かんでくるアイデアや、前に進むエネルギーの素は、この不自由な手を何とかしようとする熱意から生まれました。また、私が開発した自助具で、同じ苦しみや、悩んでいる方々が、喜びの姿に代わるときなど、私に貴重な喜びを与えてくれています。

 

 今では、この喜びが私の生きがいになっています。きっと、このことに気付かなかったら、自助具つくりもボランティアもしていませんでした。 だから、私の右手は、私のかけがいのない宝物なのです。



■なんとかなるさ!

私は、最近特に多くの方々とお話をする機会が増えました。ご相談をいただいた時には、特に「やる気さえ失わなければ必ず何とかなりますよ!」って、いつも言ってます。

 

 「指がなければ、手首があります。右手がなければ左手があります。両手がだめなら足があります。やる気があれば、諦めなければ、夢は必ず実現できます。」と言い続けています。

 

 失敗すれば、やり直せばいいし、人生が終わったわけでもありません。逆に、失敗から新しいアイデアが生まれたり、別な考え方が生まれることもあります。失敗は、神様が与えてくれる一つの忠告だし、別の見方をすると新しいことを教えてくれているようなものだと思っています。くよくよしたって、悩んでばかりいたって、済んだ過去は戻ってきません。常に諦めないでいれば、必ず何とかなります。

 

 どんなことでも、どんなときでも、是非、今の苦しい状況から逃げないで、諦めないで欲しいと思っています。私もそうですが、人生の中では、必ず色んな苦しみや悩みや、耐え難い障がいがどんな人にもあるように思います。

 

 よく「それは加藤さんだからできる…」と言われますが、そんなことはありません。誰だって出来ます。ただ、やろうとすることを自分が決めていないだけなんです。私は、「思ったらやる!」「必ずやる!」「やり遂げる!」と言う言葉を、いつも自分に言い聞かせています。

 

 やる気さえあれば、やる気を持ち続ければ、必ず何とかなります。やる気の素は、「夢」と「希望」です。そして、どんなときでも、諦めないで「夢」と「希望」を持ち続けることです。また、この気持ちを持ち続ける「根気」は、とても大切なことなんです。 そして、この「根気」は、「夢」や「希望」が強ければ強いほど、その強さに比例して強くなります。私は、このことすべてを、私の右手から教わりました。